昭和50年02月10日 月例祭
今朝、朝のご祈念の後でしたでしょうか、福岡の川上さんが毎日ああしてご参拝になりますが、こういうお届けがありました。朝のお夢に有り難いお夢を頂きました。どう言う様な夢でしたかって言ったら、三井教会の親先生が白衣に黒の羽織をお召しになって、しかも、三代金光様のお取次下さっている御結界で、何か一心にお届けをなさっておられる所を頂いた。で、有り難いねっていって話した所でした。
どなたのお句の中でしたか、「白と言う色の深さやとうの秋」というのがあります。「白と言う色の深さやとうの秋」。三井教会の荒巻先生はご自身にも気が付いておられ無かっただろうと思うんです。本当に白の様な、色でいうなら、方であったろうと思うんです。私しはそれを今日は聞かせて頂いてそんな風に思いました。白衣を召しておられる。所謂その身全体が白衣に包まれておられる。
考えてみますと五十数年間、もう本当にお道の教師として、それこそ此の様に真面目に忠実に、所謂お道の教師をやり遂げ、やり抜きなった方はもう本当に私しは知りません。そりゃ五十年、六十年と言う方もあるかも知れません。けれどもね、その三井教会の荒巻先生程に純粋ではなかったと言う事、混ざり化が無かったと言う事。もうお道の教師と言う物はこうでなからなきゃならんと教えられた、こうでなからなきゃならんと言うて、言うなら五十数年間を勤めあげられたという。
とてもとても改めて亡くなられたから思う、言うのではないですけれどもこりゃあとても真似の出来る事じゃなかったと言う事です。是はまあ本当に私しと荒巻先生の事を色々思うとです、もうそれこそ大坪でなからなければならない、もうお道の先生には荒巻先生の他には御座らんと言う様な思い、思われながら信心の稽古をさせて頂いて、ね、そしてこの方の信心というのは、それからこちらの信心というのは、段々こちらが間違ごうて来たというのか、本当の事になって来たと言うのか解りませんけれども。
親先生が山と言われりゃ私が川という。親先生が白と仰れば私しが赤という。いやそれは言わなくても、親先生が白と思うて御座れば私しは必ず赤と思うておる。ですから何時も何かが問題があったんです。もうそういう意味で私しはもう本当に親不孝の限りを尽くしたと思うんです。それが長ずれば長ずるに従ってそうなんですからね。初めは大坪でなからなんごとあり、又親先生なからなければならない様に、愈々思いさせて頂いておった私が、所謂長ずるに従って段々親が山といえば川と言う様なあり方。
もうそれこそその為に大変人情の強いお方でしたから、もう大変矢張り心痛まれた、合楽教会の為には。こっちはいらんこってっち位な、そげなんこつに心配しなさらんでよかつに心配して下さりよったけんと言う様な考え方だったですね。もう皆さん本当にそうでしょうが。五十何年間、それこそ道楽一つなさらなかったんですから、ねえ。第一趣味と言う物を持たれなかったんですから。もう趣味というなら、金光様の先生の事だけなんです。多芸なものがですよね。
旅行に行ったり、最近は今日もあちらで話があっておりましたが、金光様にもやっぱり日曜を作らないかんと言う話が出よりました、偉い先生方の中で。ね、もうそれこそ明けても暮れてもその事だけ。もうなあーんも、もうそれこそ、なんと申しますか、その着物なんかでもです、もう決してその趣味と言う物がないから、どんなもの着とられても平気であられたと言う事です。ね、もう是は確かにもう驚く事ばかりです。
言うならばその、焦点がどうであったかと言う事は言えませんけれども、けれどもまあ、ちょっと考えて見ただけでもですね、兎に角私しを生み育てなさった先生ですから、確かに素晴らしいです。いかにあたしが素晴らしいかという事言う様な、まあ是は内の信者さん達にしか聞いて貰えない話なんです、ね。それは教会は沢山有りますよ。ね、そりゃもう本当に沢山ありますけれども、ね、まあだ教会は開いとられて、ご本部のご厄介になっとられる教会も沢山あります。
ようやく教会だけが維持が出来ると言う教会も沢山有ります。そういう教会が例えば十あっても五十あっても大した事内です。例えばそういう弟子を五十人持った所で、大した事内です。親先生もある意味合いでは心配のしあいがお有りになさったなあ、合楽と言う物が育ったと言う事においてはと思うんです。なんと言うたって合楽を生みなさったんです、合楽を育てなさったんです。しかも私しが赤と言えば親先生が白、白と仰る、私しが赤と言う様にです、そういう中にありながらもです。
おかげでそれでお互いが育てられて来たと言う事です。ある時にもうあまりの事に私しは神様にお届けさして貰よったら、三井教会と合楽教会は、まるきり赤と白。もう本当に一つ間違えば紅白、それこそね紅白合戦に成りかねない様な感じでした。ね、是は間違えば。けれどもね是は有り難く行けば、それこそ紅白の鏡の餅にも似た様な物だと神様が言うて下さった事があります。ね、紅白の鏡の餅です。
是はもう本当にそうでした。もうどんなに私しがやかましく怒られよろうが、又こちらが反発しよろうがです、まあものの一時間も二人で差し向かえて話しよるとです、もうどちらからともなしに、もうそれこそ何あんにも無い様な状態というですか、それこそ色んな取沙汰されて、色んな問題が起きて、ごちゃごちゃしとりますよ。それでも私し共が親子で一時間も話しよりますとですね、それこそ色々水差す人があってもです、本当に会うた二人のその日の仲を、と言う様な感じがします。ね。
とかく言うならば、取沙汰をする人達にも、んならこの親子の繋がりの状態と言う物を見せたい様な思いがする。帰って来ると又問題が起こっておる。又紅白合戦の様な感じだった。面白い縁だったなあ、私共親子はと改めてまた思いよります。丁度八日の此処を下がらせて頂きましたのが九時、下がりましたら電話が掛かって来た。岸先生という総代さんがおられる。総代さんから電話が掛かって来た、ね。親先生が大変具合が悪いからご祈念をせよという電話であったと今言うて来ました。
けどなんか知らん、ただならんものを感じましたから、私しその前日行っておりました。でも大変気分が悪い様だから、とうとうお会いせんなり、奥様だけに御挨拶して帰りました。丁度その時に聞かせて頂いたんですけれども、私しの父の五十日祭のお祝詞を作成しなければならんのに、親先生がもう目が薄う見えられ亡くなっとりましたから、奥さんを枕元に呼んで、自分が口移しに仰る事を、若奥さんがずっと筆記なさった。で、それを清書して、若先生がお読みになった。
3人掛りであのお祝詞がでけて、もうあのお祝詞がもう、一番最後に親先生の頭の中によって、練られたものだと言う事になります。しかも五十日祭ですから、三つもお祝詞書かにゃきゃならん。三つお祭ありますから。それを全部自分がお作りになって、若奥さんに書かせられて、そして若先生が此処で奏上なさったのが、それだったというお話で御座います。まっその電話が掛かって来ましたから、それこそ取る物も取らずに参りましたら、大変お悪い様でした。もう大変もう呼吸困難のご様子です。
お医者さんも主治医の方が見えておりました。それからすぐ親教会の方へ出ろうと言う事で、若先生と私と岸先生と3人でお届けに出ました。まあ私しゃ人間心で思いますのにです、もう本当に私がご造営が始まった時に、早く始めなきゃいけん、借金してからでもいいから、早よう始めなきゃいけんて、親先生がもう、こうして目が薄くなってから、立ち上がって見えんごとさせなさったら、どうするかと私が言うた事が有りましたけれども、総代達が言う事聞かなかった。
とうとうこんな状態になったと、言うて私お話をした事で御座いますけれども。けれどももう本当に思わせて頂きます。ね、まあ人間心では、まあせめて御造営がでけて、そしてその事を聞かれて、と言う様な願いも持っとりましたけれども、お届けをして帰らせて頂きましたら、非常にその、非常にきつそうにしておられた呼吸が普通、平然の様になっておられました。あらこりゃおかげ頂きたって、かえってち言うたら、お医者さんが、いんやこりゃ悪うなりよるとですと言わっしゃる。
もうそれから30分間でした。そして岸先生はあのちょっと帰って来ると帰った。ほんのその後私と若先生と奥様と、それから若先生と鳥栖の先生がおるだけでした。ね。こう目を見張っておられた、あの目を静かぁに閉じられます。そして呼吸がねすーっと、こう消える様にありました。「ご臨終です」とお医者が言われる。もうその一瞬の様子と言うか本当にですね、神秘というか霊気というか、もう辺りにそう言う物が漂う様な、素晴らしいお国替えでした。
もうそれこそあの死顔を何回ももう、お燗の時から拝ませて頂いたんですけれども、もう実に穏やかな表情で御座いました。ね。五十数年間それこそ私共の様に道楽をし尽くした、された事の面白さも分かられんなり、ね、それこそ私共の様にもうそれこそ好きなことは放題な事をやって来た者とは全然違った。もうそれこそ真面目に忠実に五十何年間、お道の教師として、それこそ手本の様な生き方をなさった方の生涯ね。思わせて頂いてもうそれこそ感無量で御座いました。
それから早速その夜、洗礼の式が御座いました。洗礼の式が終わりましてその後に、鹿児島の行徳先生が御挨拶になりましたが、開口一番に「兄というよりも、私共は兄を親としてまあー慕うておった。兄こそ教祖様が教えられる、あの世にも持って行け、この世にも残しておける徳を受けた人だろうと思う」というお話がありました。その時に私もこう目をつぶって聞かせて頂いておりましたら、はっきり漢字で「明治生命」と言う事を頂きました。明治生命とは、明治生命保険の事だと。ね。
明治生命保険にかたっておられた訳でも御座いませんのですから、ね、所謂明治と言う事は、言うならば明るく治めると書いてある。ね。そう言う様なものを、所謂生命保険というのは、後に残る者に残しておく、後の者の為に成る様に残しておくというのが生命保険です、ね。確かにそう言う物を残しておいでられた。明るくそして治める。それを言うならば、後の者に残しておかれた。五十数年間、ね、それこそもう一途に、ね。もうなんというですかね、やまこげがない。
もう真面目な生き方をなさった。これはもう親先生だけじゃない親奥様もご一緒、そうでしたね。もう人間的にこんな素晴らしい方なかった、と思います。合楽そして三井教会。たった親先生の五十年間の間に、ならお弟子という、いうならば、お広前でも持たせて頂くという弟子は、結局は私一人であったと言う事。ね、そこで私一人がです、五十人分も百人分ものおかげを頂く事になればです、言うならば百人のお弟子を持たれた事になるのだ。ね。私は愈々是からもです。
そういう意味合いにおいても、おかげを受けて行かねばならないなと思わせて頂いております。昨日が火葬祭で御座いました。まあ色々と偉い親先生方が一杯おられますもんですから、親戚に。もう問題が問題を生んで、色々総代との間に問題がありました。そこでまあ、色々お話があった中に、今度の葬儀の委員長は、合楽がするべきだという説の方が多かった。反対する方もあったらしい。新た丁度私しと炬燵の間で、私が炬燵の間におりましたら、総代達が3人連れやって来てから。
「今度は大坪先生、あんたがどうでもこうでも、一つ葬儀の今度、委員長勤めてほしいからお願いする」と言う事であった。もうそれこそもう私しがごたっとで、出来るはずもない。で、又私しがしよったら、絶対問題が起こる。問題になる。ね、誰か適当な外の人をと言うけれども、もう強いて、もうそれこそ、頭を底に付ける様にして、頼まれました。私しもどう返事したらよいか分からん様にあっ時に、前の方に北野の先生が居られました。それで北野の先生が、その口を開かれて、総代達に言われるんです。
「あんた達は大坪さんに、一所懸命委員長になってくれと頼みよるが、そげなんこつは、あんた家族の遺族の者が、遺族の者が一番信用しとる人に頼むのが、葬儀委員長だよ」ち。もう総代さんがかくっと来てから、もうその妙な雰囲気でした。所がそれを横で若先生が立ちながら聞いとられました。そこから若先生が又その北野の先生に、「そんなら私がお願いすれば良いのですか」ちゅ。「そうたい。貴方かお母さんかが、お願いする人でなからなきゃーいけん。総代がそんな事言うもんじゃなか」
まあ、それはやっぱし本当かも知れません。けれども教会葬だから、あの教会の総代が決めると言う事だったらしんですけれども、そういう一幕もありましてね、もう兎に角私が葬儀委員長になると言う事には、もう其処の辺から、愈々こう問題が愈々ありそうでした。もうそれは昨日当たりは、もうそれがもう山あげましてね。もう本当に私が側でもう聞いておってから、はあ是が何年か前であったら、クーとしたり又は、あぁんなら私は止めますよと言うたり、したかも知れませんでした。
昨日は久富正義さんと、それから繁雄さんとが一緒に着いて来ておられました。丁度最後のご直会の時でしたから、「はあ成程親先生が善導寺にやりにくかなさるはず」と、側で聞きよって思うただろうとと思う暗いに、そんな色んな問題がありました、ね。結局親先生は、久留米の教会長である。久留米の兼務教会長である。久留米教会の教会の、言うならば久留米教会長としての権威を持っての葬儀でなからなきゃならんから、やっぱりそういう権威を持った委員長でなからなきゃいけないと言う訳なんです。
けれどももう会場は廻っとりますし、委員長は大坪総一郎の方で、もう出しとりますから、例えばんなら私しが止めると言う訳にも、抜きも挿しも出来ない破目になってる訳なんです、ね。それでまあ丁度、他所から来とった先生方も有まして、結局んなら葬儀委員長の合楽の先生の意見を聞こうじゃないかと言うて下さる先生がありましたから、私しに意見を述べました。それでまあまあと言う様な事で御座いましたけれども、昨日私しがあちらへ参りまして、朝の新聞を見せて頂いておりましたら。
ずっと西日本に出てますですね。虎年の所に「プラス、マイナス」ち書いちゃった。ね。だから本当に、昨日はプラスマイナスの一日で、しかも何んにもないと言う様な心の状態を頂いてです、有り難いと言う風に思いましたがね。今日はどう言う事になるだろうかと思って、新聞見せて頂きましたらね「どういう障害があっても、元気な心で乗り越えよ」と書いちゃった。だから今日私はそれこそ元気出してから、今日は本当に委員長の名においてと思うてからやらして頂きました。
そしたらもう今日は大変スムーズです。もう第一お月次祭でしたから、お月並祭が済みましてから、行徳先生が「夕べ遅うに、こうして色々決まった事を、ある先生に大坪先生に一辺聞いてもらっとけ」て言う事。で一杯色々と細々と全部従員祭員の事が、決まっておりましたから、それを、所謂私しとの手に、又総代たちも皆んな集まって説明会を、説明をしてくれました。それは、もう他にどうて言う事は御座いませんでしたけれどもね、そのお祭事の方だけが、もう実にお粗末でした。
だからそれはね、どうでも私は記念祭並にやると、私しは申しました。そしたら有り難いですね。私しはもう本当に驚きました。そう言うて私しが、あの其の代わりこんな小さい三方じゃなくて、家から全部もう今度は、道具から小道具一切、合楽から持って行きます。今まではそんな事言うたら、もうそれこそ押し返されとったです。所がもう一切合楽から持って行く三方なんか、もうこんな小さい三方でしたから、大きな三方にして言うなら記念祭並の台数も少ないですから。
お魚もこうだああだと言うております所に、あるめったに参って来ん御信者が参って見えましてね、その大祭と同じ様なお魚のね、赤尾のお魚を私にさせて下さいと言う人があったからですね。私しはもう本当に本当に驚きました。ですからもう後はそのとんとん拍子でした。ならそうしようと言う事になりました。大盛りもこうしようと言う所に私しがお米を5俵大盛りに出そうと言いよる所へ、高木さんていう総代さんがやって来ました。それであのお百姓さんですから。
だからあの準備して下さいていうたら、「はあそんなら私が引き受けよう」て言うてから、さっそく引き受けて下さいました。うん。と言う様にです例えば本当にそういう、こちらが勢いを持って、今日は出させて頂きましたが、それもこり積ませるだんじゃなかった、やっぱ貴方が来なきゃこれしきんことはでけんと言う様な雰囲気の中に、今日はおかげを頂きました。
愈々十二日がそう言う是はもう、私しが今日思わせて頂くんですけれども、どれ程の事をしても、しかし是で足ったとは思われないです。合楽が今日是だけのおかげを受けておると言う事をです、ね。それこそ昨日おとといの御理解じゃないですけれども、この方金光大神あって神が世に出られた様に、この方荒巻久人先生なかりせば、今日の合楽あってないです。久留米の初代の様な、又は甘木の初代の様な大徳の先生であったとするならば、師匠であったとするならばです、今日の合楽は生まれてないです。
赤であり、白であるというそこにです、何時も信心によって、一つの鏡の餅の様に、おかげを頂いて来たからこそです、今日の合楽があるのです。だからこの方金光大神あって神が世に出られた様に、荒巻久人先生あって、今日の合楽があると思うたら、どれだけの事をしても、是で済んだとは思われませんし、是で良いと言う様な事はないのですけれども。一時が万事にその準備の、合楽は合楽としての準備をです、今晩は総代幹部の方達にも話し合いを致しまして、ね。
その前後策を講じたいと思うておりますが、どうぞ十二日をその様な、ね、この方あってという方の、この世で最後のお別れの式がある訳で御座いますから、どうぞ沢山お参りを頂いて、ね、お別れのご挨拶を銘々、させて頂きたいと思うのです。一時の告別式で御座いますから、もう沢山な予想されております。外の方へ掛け出しをしましてから、こっからあの百人前いの椅子も持って行く様にしとります。
ですから折角の事ですから外で拝むと言うよりも、中に座れる暗いな時間にです。そん為に又此処で集合時間なんかも決まりましょうから、ここで集合して揃うて一つお参りのおかげを頂きたいと思いますから、皆さんもどうぞよろしくお願い致します。十二日の午後一時からで御座いますからどうぞ今日川上さんが頂いておられます様に、それこそ五十数年間という間を。しかもその白衣を着て紋付の黒の黒衣を着られて、ね。
もう大きなお三方の上に乗って、ち言う事でしたお三方の上に乗って、三代金光様にお届けがあっとったと。だから五十数年間というのは、もうそのまま神様にお供えを自分の体にのしつけておられたという感じです。ね。亡くなられて言う訳じゃないけど本当に亡くなられて改めて分からせて頂く事も沢山御座いました。どうぞその様なお働きを下さった方に対する報いる意味を持って、どうぞ十二日はご参拝が頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
どううぞ。